愛のある日々を

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『ユンヒへ』感想

『ユンヒへ』を観た。
昨年から日本での上映開始を楽しみにしていて、久しぶりに上映日をしっかり覚えて観に行った作品。

あらすじは公式サイトなどを見ていただければと思うけど、かつて付き合っていたユンヒとジュン。けれど周囲の環境、不理解のせいで離れ離れになり、今は韓国、日本でお互い別の人生を歩んでいる。そんなユンヒのもとへある日、ジュンからの手紙が届き、ふたりの再会へと繋がってゆくお話。

まず、ユンヒとジュンの感情の機微ももちろん素晴らしく、何度もその演技やセリフに涙したのだけれど、それらを見守り、支えるユンヒの娘であるセボム(韓国語で新しい春という意味らしい)、そしてジュンと共に暮らす伯母のマサコ。この2人のユンヒ、ジュンへのあたたかい眼差しと後押しが、かつて抑圧と不理解によって別離させられ、傷つけられた2人を優しく包み込んでいて、女たちの連帯が雪の降りしきる真っ白な小樽を照らすオレンジ色の街灯のあたたかさとよく似合っていた。
父が死んだ日の夜、気丈に振る舞おうとするジュンを優しく抱きしめてくれるマサコ。ジュンもユンヒも、かつての姿が詳細に描かれていたわけではないから確信はできないけれど、不条理に傷付けられ、1人で生きていく(ユンヒの場合は結婚をしたけれど、それは彼女の望んでいたものではなく、ある意味独りだった)と心を幾重もの鎖で閉じてしまって。その鎖を解けるのはマサコ、そしてセボムなのだ。
仕事と生活で疲労の色を滲ませていたユンヒを小樽へ向かわせたのもセボムだ。セボムが画策した小樽での日々のなかで、ユンヒの顔色が段々と生き生きしていく様子は、雪に包まれた静謐な小樽の景色のなかでひっそりと咲く花のようだった。

ユンヒを雁字搦めにしていた、罰の意識。でもジュンが自分たちのことを恥じないと書いているのを見て、ユンヒもその意識から解放されたのだと思うと、2人を繋ぐ糸が20年もの間途切れず確かにそこに存在し続けていたことに感謝したくなった。生きていること、毎日が罰だったユンヒの20年間、そしてそのなかでも決して失われることのなかったジュンの記憶。罰のなかでも生まれた希望、セボム。小樽で撮影した写真を見ながらユンヒの笑顔がないと口にしたセボムが、最後のシーンで新しい扉を叩こうとするユンヒの笑顔をフィルムにおさめていて、小樽の旅を通して彼女の心が取り戻した全てがあの写真に詰まっているのだと思った。

「雪はいつやむのかしら」というマサコの言葉。雪をユンヒやジュンのようなマイノリティへの抑圧と捉えた時、作品の前半2人で雪かきをしている際に「雪はいつやむのかしら」と口にするマサコに「何年ここで住んでいるの」(うろ覚えだけどこんなセリフだった)と返したジュンが作品後半ではマサコと同じセリフを口にしていたのが印象的だった。クローゼットなレズビアンである彼女が、雪のように小さくても確実に積もり続ける偏見や抑圧に(止んでほしい)といったニュアンスを含んだあのセリフを口にしなかった前半、そしてそのセリフを自分から口にする後半。その変化には確実にユンヒが関係していて、ジュンから感じる諦念がユンヒの存在、そして夢に出てくるようになったことで少しでも取り除かれていったのなら希望だと思った。

 

そしてここからはさらに個人的な感想になるけれど、『あなたに出会ってから、私は自分がどんな人間であるかを知ったの』というセリフが何よりも胸を打った。宣伝ポスターなどでこのキャッチフレーズを目にするたびに涙が出そうになった。
私にもそう思う人がいるからだ。そして、その人への感情をあまりにもこのセリフに言い当てられていて、初めてこのセリフを目にした時、恐怖すら覚えた。
私は今その人と同じ時間を過ごすことができる。まだ。未来はわからないけれど、降り積もる雪を、新しい春の日が溶かしてくれることを願いながら。私はこれからもずっとその姿をこの目に焼き付ける。私が私であることを思い知らせてくれるその姿を。

 

(あと監督のコメントも良かったです。公式HPなどでもクイア映画と明言されていて、ほわっとしていなくて良かった。)